病院へ行って医療通訳をする。通訳場面では、毎回、緊張感を持ち、何一つ言葉を落とすことなく、わかりやすい表現法で訳せるようにとつとめるのだが、通訳が終わっての帰り道、通訳場面を反芻していると、あそこは、こういう言いまわしの方が、わかりやすかったのではないか、単語はこちらの方が、よりよかったのではないかと、細かい部分でのオプションが頭を駆け巡る。20年近く、そんなことを繰り返している。
その人にとって最後の通訳になってしまったということも経験してきているが、さすがに、1年にそういうケースが4回あったときは、なんだか自分が「おくりびと」になってしまったような気がして、自分が通訳に行ってよいのだろうか・・と落ち込んだこともあった。死に至らないとしても残酷な告知をすることもある。通訳をしているその場では、家族や患者の思いを感じながら、平静に対応しているが、心の中には澱のようなものがたまっていく。
そんな医療通訳ではあるが、ふっと心が軽くなったり、とてもすっきりした気持ちで、満足感を得ることができたりということもある。
言葉に不安のある患者さんに、医療通訳者がつくことはごく当たり前のことであり、その患者さんにはいつも医療通訳者がついている病院で、ある日、診察室に入ると「来てくれたんですね!よかった」と医師に声をかけられた。なんだかふっと心が軽くなり、じんわりと温かいものがしみてきた。人間の心というものは複雑なので、毎回言われるとプレッシャーに変わることもあるのだろうが、知らず知らず、ちょっと心が疲れているとき、傷ついているときにこういう言葉を聞くといやされる。
また、お互いの言葉が足りないために、不信感を抱いて、治療がうまく進みそうにない時に医師や患者に、「正確に通訳するために確認したいのですが・・」と細かい部分を確認してから通訳していくことで、お互いに対する不信感が消えてうまくかみあったときなど、通訳をしている自分もすっきりし、満足できる。
医療通訳者は、あくまでも黒子であるべきと思いつつも、医療者、患者、医療通訳者の3者で成し遂げた感を感じることもある。
以前に比べると、研修もいろいろなところで行われ、優秀な医療通訳者も増えてきている。私は、優秀な医療通訳者にはいつまでたってもなれないとは思うが、これからも、準備は怠ることなく、地道に学習も続けていくことで、医療者や患者にも助けてもらいながらも安心してもらえる危なくない医療通訳者としてできる限り続けていきたいと思っている。(IY)
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